大阪〝夕刊紙〟の思い出

美しい言葉の圧力よりアナーキーな自由さを

現在の見えない言論統制の狡猾さ
「新大阪新聞社」に在籍当時(80年代)は、〝夕刊紙〟という大阪特有の文化がまだ全盛で、暴力団の抗争事や芸能界スキャンダル、〝ピンクネタ〟など、かなりアナーキーな紙面を売り物にしていました。
戦後GHQの用紙の統制と地域紙育成方針から始まった新大阪新聞も、元々は毎日新聞の子会社で、「地元大阪の復興と地域文化の発信だけでなく創造の拠点になろう」と発刊当初の先輩方は崇高な理想を掲げて取り組んでいたようです。
他大手紙も同様ですが、毎日新聞が自社で夕刊を発行できるようになると経営権を、マスコミを利用したかった総会屋に売り渡し、紙面も急速に凋落していったという経過があります。その過程で開いた〝あだ花〟が大阪特有の夕刊紙文化だったのかもしれません。
以後、ライバル紙の一つだった大阪日日新聞の朝刊化(平成12年経営移転)を最後に大阪の〝夕刊紙〟は消滅しました。
30代前半、自分の労働争議解決を契機として、独立したのですが、今でも当時の編集局内の空気感をよく思い出します。
当時、新聞記者は〝インテリやくざ〟と言われていて、特に社会部「マル暴」担当にはそのまま当てはまっていました。ある日、先輩の記事を大幅に削除したら、府警詰めキャップから「ヤキ入れたるから後でボックスに来い」と脅されたりしました。
夕刊紙は駅店頭売りが主流なので、売れ行きが数字として直接現れるので、その日の一面担当デスク名が販売局長に毎日報告され、陰で評価されていました。
売れる紙面は記事内容ではなく、紙面の構築方法によります。整理部では記事に対する編集者意識(=読者目線)がいかに重要かを叩き込まれていたので、先輩であっても粗っぽく言い返したりもしました。
この時代のアナーキーさと視点の取り方は、今の生き方の基本になってしまったようですが、今より環境が劣悪だったわけではなく、何よりも自分で考えることの大切さを教えてもらったような気がします。
何度も書いていますが、現在のメディアは一方向に向かわせる闇の力が大きく働いています。例えば「民主的…」といった意味不明の言葉は感覚的に使われ、自分の頭で考える能力を麻痺させます。さらに不安と恐怖を巧みに利用して、反対できない詐欺的レトリックに誘導し、言論統制を行うのです。
ワクチン報道などはその最たるものです。「○○やめますか、それとも人間やめますか」というレトリックに選択権はないのです。



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