デザインに盗用などあり得ない、もしくは全てが盗用だ
仕事柄、日常的に制作物の「デザイン」について悩ましている私たちにとって、今度の東京五輪のエンブレムのデザイン盗用?騒動は、論議自体が相当ズレていて、愉快な話ではない。先日のニュースではようやく〝一般公募〟をスタートするそうだ。何がズレているのか。「デザインの盗用」、「著作権」、「公募選考?」、これらの全てがおかしい。
プロなら盗用?は自明の理(常識)のはず…じゃないのか?
デザインの盗用?って。私たちにとってそれは不可欠なだけではなく前提である。私たちは制作物のデザインコンセプトを考える際、最初に行うのが素材探し。まずどこかから材料を拾ってくるのだ(文字通り〝盗んでくる〟という)。雑誌・書籍や絵画、もちろん同業他者のものでも参考にする。根拠はいたって単純、いかなる新しい制作物もこれまでの人の営み(文化)の上に成立しているからだ。その営為を前提に新しいモノを立てる。この世界に存在しないものからは何も創れない。それゆえ制作物はそれらの素材そのものではなく、その上に立った制作者の「意図」の凝縮である。
そもそも「著作権」なんていうのは意味のない権利
第2に「著作権」だ。まず、一番ズレた話は「商標権」という商業主義との混同だ。「商標権」は経済システムに組み込まれている。つまりモノのもつ経済的価値?が前提にあって、認知度その他の指標でその価値の算定が可能な仕組みにある。
しかし「著作権」はそれとは違う。まず価値を前提としない。デザインでも絵画でも他の芸術でもそうだが、そもそも「著作権」は「商標権」と違って何の登録義務もなく、創作しただけで発生するのだからややこしい。「自分が創った」と言えば、それだけで権利が発生する。だからその性質上、算定可能な価値基準などつくれない。ゆえに経済的価値などは不明である。運よく商取引が絡んだ時にだけ発生する権利だ。
私たちが感覚的に使っている「デザイン」の本当の意味は?
では、そもそもデザインとは何か? 一般的に日本語訳すればデザインは「形態」や「意匠」と訳されてきた。だがそれだけに限らず、人間の目的をもった行為や物?をより良い?かたちで適えるための「構想」「設計」「計画」をも意味する…とされている。つまりデザインという概念は、対象(物・事)のもつ意匠に関する方向性をもった総体のことを表すのだ。ここまで言ったら何のことか分かるだろうか?
デザインの価値なんて誰も決めることはできない
かのスティーブ・ジョブズは「デザイン」というものについて、明快な定義を示した。「デザインとは、単にどのように見えるか、どのように感じるかということではない。どう機能するかだ」と言ったそうだ。
つまりデザインとは「美しさ」や「(誰かの)評価」や「人気」ですらなく、意図を持った方向性そのものを指すことになる。これを私流に先読みすれば「それに唯一評価や価値を与えることができるのは、時の文化や歴史」だということになる。このすごい洞察を前提とするならば「似てるか否か」などはどうでもよく、また、下らぬポピュリズムに裏打ちされた「選考」などという意味のない議論に終止符を打つ。
共通の素材で「独自の価値」を生み出すのがプロだ
そもそも、本気で仕事に取り組んでいるプロなら自明の理である。「○」や「△」といった〝安定系〟の図形に個人の権利などはない。〝複雑系〟の尾形光琳の「風神雷神」ですら盗作だからと騒ぎたてるものもいないだろう。その素材を生かしながら「独自の価値」を生み出すのがその道のプロの存在意義で、独自の価値観で日々淡々と仕事をしているのだ。この議論の本質は「庶民感覚」とやらも含めた「経済主義」(=損得にまつわる公平性?)を前提とした発想なので、誰がやっても的確な「選考」も「評価」も加えることはできないのだ。そもそもこの地点での議論は下品でありナンセンスである。