もう40数年前お話になりますが、中2の時に1年間(正確には11ヶ月)だけ在籍していた大阪市立少年保養所。結核棟から喘息棟中心へと変遷して1992年に閉鎖されていたそうです。
併設の大阪市立貝塚養護学校が2009年に閉校になるまでは、ここは通学路を閉鎖していたため敷地内にはなかなか入れませんでした。
「時の流れに…」は2011年11月
養護学校閉校後の一昨年の2011年11月、一人でその跡地を訪問。通学路の閉鎖部分がかなり甘くなっていたため、敷地内だけでなく『つくし寮』内の写真も取れたので『廃墟の旧大阪市立年保養所「時の流れに…」』というブログ記事を書きました。「時の流れに…」はつくし寮の詰所の上に貼られていた詩のタイトルです。
貝塚養護学校閉校後、保養所は急激に荒廃が進んで…
先のブログは今からちょうど2年前の話ですが、このブログをアップしてから、同窓の方や関係のある方を中心に、今でも細々とコメントの書き込みが続いていて、同世代の方とも交流出来つつあったので、その後の報告のため最近(2013年9月)再び一人で訪問しました。今回は通学路が開放状態になっていて、侵入者も多いのか急激に荒廃の度合いが進んでいました。ただ『つくし寮』をはじめ、施設はまだ取り壊されていませんでした。
『40数年ぶり、初対面の旧友と廃墟探訪(大阪市立少年保養所)』
今回は、この報告『大阪市立少年保養所「つくし寮」まだありました』というブログを書いたあと、初対面の『ヨロジ』さんと「取り壊される前に是非とも一度行こう」というお話になり、ご報告のとおり10月26日に決行。今回は「一人で訪問するには寂しすぎる」この地に、複数の人と、しかもブログでご縁になった方とここを訪問できて、とても不思議な気持ちでもあり、感無量です。
なんとしても『記念撮影』を
このツアーに先立ち、「寮内で記念撮影を」と決めていたので、倒れていたロッカーを台にタイマーをセットして記念撮影をしました。
これまで『廃墟探訪サイト』には廃墟写真や外観写真はあっても動きのない無人写真ばかり。ここ数年、この寮内で記念撮影をした人がいたでしょうか? 多分私たちだけかもしれません。一人だったらこんな写真撮る気しないものね。子供時代に走りまわった廊下やホールは何年も時間が止まってたけど、今回の訪問で、少しだけ時間を動かしましたね。
写真=『つくし寮』1階の旧2号室(女子部屋)前。後方は詰所・ホール、突き当たりが旧食堂方向)。2013年10月26日撮影。
16 comments to this article
yoroji(shuis)
on 2013年11月7日 at 21:06 -
KANさん、写真のアップありがとうございます。ちょっと照れますが。。^^;
KANさんの言われるように、ここは僕たちにとっての療養の場、遊びの場、学びの場でありました。そのような場所ですから、本来ここで記念写真を卒業生が撮るのは当然な事と思います。残念ながら廃墟として有名になってしまいましたが、僕達にとっては永遠に廃墟にならない記憶の場所だと思います。
村田博務
on 2013年11月9日 at 12:49 -
何年か前につくし寮だと思われる動画がありましたhttp://www.youtube.com/watch?v=NKh7Manjpf8 結核病棟はもう取り壊されていたんだと思います 自分は保養所に3年入院していました養護学校でみかん狩りに行った事 保養所では春 桜の満開の時食堂から弁当とおやつをもらい保養所の敷地内で花見をしたこといといろ思い出があります。その地が今霊スポットとして廃墟マニアの見世物になっています 自分の記憶の中でも永遠に廃墟になら無い土地だと思います
KAN
on 2013年11月9日 at 20:06 -
村田さん、ありがとうございます。この動画見ましたが、つくし寮はほんの少しで、映像のほとんど新館部分だと思います。
元結核棟の跡地に立てられてはあるのですが、(例の廃墟サイトもそうですが)この建物を結核病棟跡と表現するのは明確に誤りです。
今回は新館部分はあまり入らなかったけど、ここはかなりモダンなつくりになっていて、プールや食堂もかなりイキです。自然学舎のイメージですね。荒廃しているけど霊スポットとは無縁ですね。
自分自身は春の桜は経験ない(5月入所)のですが、一度春に花見に行きたいですね。
yoroji
on 2013年11月9日 at 22:31 -
そう、あの食堂もかなりモダンで、新しい感じがしましたね。なんかあまり永く使われず廃止になった感じでしたね。
村田博務
on 2013年11月10日 at 08:09 -
保養所ではいろんな行事がありました。クリスマスには所長がサンタクロースに変装して一人一人にプレゼントがあり12月25に全員家に外泊、外泊期間が終わり戻る時の寂しさは今も覚えています、春は花見いろんな思い出があります。
よろじ
on 2013年11月10日 at 12:24 -
村田さん、そう外泊は当時の入所生にとって最高の嬉しいイベントでしたね。家に帰ったら思いっきりラーメンとか食べようってみんなで話してましたよ^^当時はこっそり持ち込んだ袋麺をタッパに入れて生ぬるいお湯を注いで食べてましたからね。。
村田博務
on 2013年11月10日 at 15:45 -
つくし寮でも同じだったんですね、タッパに入れて作るラーメンおやつも持ち込みだめだったんだけど皆持っていて小遣いも皆少しだけどみんな持っていて夜抜け出して街まで買出しに行って見つかると保母さんにこっぴどく叱られた、たぶんつくし寮も同じだったと思います あの時の同級生今は元気にしてるのかな
KAN[
on 2013年11月10日 at 18:55 -
タッパのラーメンは旨かった。今ほとんど見られないですが、細長い円柱で、チキンラーメンを割ってお湯を入れました。(この写真では突き当りの手前左がボイラー室です)湧いてる時はかなり熱い湯でしたよ。でも、お湯がないときは時間はかかるけど水でも作れることがわかって、やってました。でもあまりおいしくはないけどね。
あと、コンビーフが流行っててね。(それ以前は知らなかったです)。外泊の時に買って持ってきたりしてました。
ひろせ
on 2013年11月10日 at 22:37 -
チキンラーメン、私は各部屋に設置してあるスティーム暖房機の前面パネルをはずし、放熱板の上でふやかしてました。 50度程度とすこしぬるかったけれど、見つからないし、なかなかの味でした。
よろじ
on 2013年11月12日 at 20:16 -
みなさん、それぞれ工夫してラーメンを食べてたんですね^^ 僕達の時は普通に?給湯室から温いお湯をかすめて、そう、当時チャルメラかサッポロ一番が多かったかもしれませんがそれを頬張っていました。考えたらこれはカップヌードルの先駆け的な食べ方だったのかなぁ。。。お腹すくととんでもないアイデアが生まれるもんなんですね。とにかく空腹が辛かったです(>_<)
ひろせ
on 2013年11月20日 at 18:08 -
よろじさん、KANさんにもメールで言ったのですが、 あの時、若かりしあの時代が懐かしいの皆さんそうだと思います。 けれども私は、寮生活(学校も含めて)自体はとても辛かったです。 あのジョーンバエズのドナドナの歌詞のように 「もしも翼があったならば、楽しい親元に帰れるものを~」 そんな気分でした。 特になんでも話せるKAN君が、私をおきざりにして富田林に帰ってしまってからの、その後の一年間は野球の消化試合みたいでむなしかったです。 自分自身の居場所なり、存在意義をなかなか見つけられなくてもがきました。 すみませんKANさん、45年目の告白になってしまいましたね。 よろじさん、私は後輩の小学生達に楽しい思いをさせてやれなかったのではないかと、いまも自責の念が少しあります。 昔のことでずいぶんおかしな話ですが、楽しかった寮生活のこと遊びのこと、興味がありますので宜しかったらもっと教えてください。
よろじ
on 2013年11月27日 at 23:22 -
ひろせさん、僕の時期はドン的立場であった中3の盛木君がすごく良い人であり、人望も厚かったせいか辛いことはあまりなかったです。ただ、時期によってはいろんな問題もあったようですが、楽しい思い出もきっといっぱいあるのではと思います。中3以下の集まり、生活であったわけですから自責の念にかられる事も無いのではと思います。生意気なこといってすみません^^; 今後も懐かしい話を楽しくしましょう。
JUNE
on 2014年8月16日 at 00:10 -
懐かしすぎます。
75年~78年までつくし寮にいました。
KAN
on 2014年8月17日 at 07:25 -
JUNE様、書き込みありがとうございます。この春もう一度みてきましたが、保養所の桜が満開でした。
後藤佳弘
on 2021年1月15日 at 09:01 -
77年から79年3月まで金太におりました
後藤佳弘
on 2021年1月15日 at 09:06 -
77年から79年3月まで金太に居りました